海の底から

備忘録

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八木重吉 『重吉詩稿』より

 自分用メモ3。
(『日本の詩 八木重吉』 斎藤正二 編 ほるぷ出版 刊 より)
 
 
 感触は水に似る 一九二三年(大正十二年)編

  ○  一九二一年(大正十年)作

雲が
湧く 日

白い
雲を みる

吐息して
またも みれば

白い
雲が ながれる


 白い哄笑 一九二三年(大正一二年)編

  ○

夢に みし
空の
青かりき

山の土と
草の
うれしく ありき


 焼 夷 一九二三年(大正一二年)六月編

  ○

 焼夷せん しかし もえさかるその日まで いかに 遠い日であるだろう! 朗朗と 焼け夷(たいら)げゆかるる 狂悩の 曠野(こうや)は 幻影となってうかぶが 現(うつつ)のわれは はてしない 無明である 嗟嘆(さたん)と 欣求(ごんぐ)は あやとなりゆく はかなさよ
 ああ 何と くらいのだ 何と くらい 日なのだ
 あるときは 追うに疲るる みずからの 骨のきしみ 肉のうめきさえ きこゆるぞ
 だが ゆかねばならぬ ゆかねばならぬ 傷つかば 傷をつつんで ゆこう 孤(ひと)りならば ただ ひとりでゆこう


 巨いなる鐘 一九二三年(大正一二年)編

  ○

ちかごろ なんとなく
こう
馬鹿に だだっぴろい
「偽(いつわり)」の海を
泳いでいるような 気がしてならぬ
よくもまあ こうして
あきずに 泳いでいるな と
われながら
ときに あきれる
これだけが
わたしの 路だもの


 不安なる外景 一九二三年(大正一二年)編

  ○

さびしい日は
すべてを燃やしたい


  ○

疲れた私の背中から
こぼれた夕陽が土に浸みる
私は西に歩むのだ
私の小さい家は西に在るのだ

かすかな かすかな
「光」に似たものが わたくしの
胸のあたりからこぼれる――
そして
陽のかけらといっしょに
からまりあって土にとけいる

光りでない「光」が
色彩でない「色彩」が
さんさんと わたしをひたす

わたしのものである
‘little’であって ‘a little’でない
あらゆるものが
わたしを哀しませるのだ
わたしを疲らするのだ

だが しかし
哀しみの 疲れの
かすかな間隙(かんげき)に 私は見る
私は 「静けさ」をみる


  ○

私の心には
静かな風景がある
私の心の風景を
寂しい耶蘇(やそ)が歩んでいる

或るときは
彼はいらいらとした
怒れる耶蘇である

私は まだ
柔かい瞳の耶蘇をみない
私の心の耶蘇は いつでも
寂しい耶蘇だ
怒れる耶蘇だ

おお いらいらしげに
歩んでいる耶蘇よ
私は 辛い なぜ
凝(じ)っと 私をみつめているのか!?
おお
その瞳(め)!
その瞳!

ふと たちどまって
ちらと 私に投げるその凝視
何という寂しげな眼だ
なんといういきどおろしい瞳だ


 欠題詩群 <推定・一九二三年(大正一二年)編>

  ○

小気味よく
すべてを打ち貫いた線
静かにもえる面


  ○

すべてを
神の顕現と みたい

そう
みえる日はいつ来るか

すべてとは
真に すべて!

嘲笑する者の顔が
裏切る者の顔が
行きずりの人 皆が
己に無関心な人人が
真珠を与えた その
報酬に
石くれを
投げかえした 顔 が

それ等が
すべて
耀耀(ようよう)と
恍惚と
聖に燃え
かがやいて
みえる日は いつくるか!?


 毬とぶりきの独楽 十九二四年(大正一三年)六月一八日編

  ○

てくてくと
こどものほうへもどってゆこう


  ○

あかんぼが
あん あん
あん あん
ないているのと

まりが
ぽく ぽく ぽく ぽくつかれているのと
火がもえてるのと
川がながれてるのと
木がはえてるのと
あんまりちがわないとおもうよ


  ○

ぽくぽくひとりでついていた
わたしのまりを
ひょいと
あなたになげたくなるように
ひょいと
あなたがかえしてくれるように
そんなふうになんでもいったらなあ


  ○

川をかんがえると
きっと きもちがよくなる
みるより
かんがえたほうがいい
いまに
かんがえるように
みることができてこよう
そうなれば ありがたい


  ○

森へはいりこむと
いまさらながら
ものというものが
みいんな
そらをさし
そらをさしているのにおどろいた


 純情を慕いて 十九二四年(大正一三年)十一月四日編

  「断 章」

あるときは
神はやさしいまなざしにみえて
わたしをわたしのわがままのまんま
だきかかえてくれそうにかんぜらるるけれど
またときとしては
もっともっときびしい方のようにおもわれてくる
どうしてもわたしをころそうとなさるようにおもえて
かなしくてかなしくてたえられなくなる


  ○

さむかぜのそらに
みか月がかかっている
くろいよる
頬にきずをつけて
こころよいいたさをかんずるようなつき


  ○

しんみりと
おそあきのあさはあける
すずめのこえは
みずいろにほのぬくい火花のようにちる
からころとわたしのうちのだいどころにも
うらのいえのあがりはなにも
あたらしやかなげたおとがひびく
植えこみのもみの木木のえだ葉は
おとなしやかにあさのみずくろいを手ぎわよくしている
いちめんにたまご色のふくよかな東のそら


  ○

このごろのくもは
したしげに生きている
ふしぎなほほえみをみせたなとおもう と
するすると
こころがわりした小娘のようによこをむいていってしまう
まことに小春日というのがふさわしい日なら
山のかげで
小半日ぐらい雲とあいびきする
まひるのつきのようにあわいうれしさ


 幼き歩み 一九二四年(大正十三年)十一月十四日編

  ○

このかなしみを
よし とうべなうとき
そこにたちまちひかりがうまれる
ぜつぼうとすくいの
はかないまでのかすかなひとすじ


 寂寥三昧 一九二四年(大正十三年)十一月十五日-二十三日

  ○

こういうくらしができたなら
平凡のようで平凡ではない
よるは うつくしいゆめばかりをみて
なんのおもいもなく
ただありがたさにみちてあさをむかえる
すべて きょうのひとひは
秋のひに けやきがすくすくと野にたつように
ひとすじに まじりけなく
じぶんのこころと身をひとつに統(す)べて
できるかぎりのことをけんめいにしたい
ありがたさのおもいのかげに
すべてをひとつにささぐるねがいをかきいだいて
きょうのひと日をあゆんでゆき
ゆうがたをむかえたらば
きょうすごしえたるを 手をあわせて おれいをもうしたい


  ○

むやみと
白いみちがつづく
ほかほかと
あたらしいぱんの
さきくちのようなあきのひる


 貧しきものの歌 一九二四年(大正十三年)十二月九日編

  ○

このよに
てんごくのきたる
その日までわがかなしみのうたはきえず
てんごくのまぼろしをかんずる
その日あるかぎり
わがよろこびの頌歌(うた)はきえず


  ○

みずからをすてて
まず人につくすという
そのひとつをのぞいたなら
切切の詩をつくってゆく
それよりほかになすべきわざをしらない


  ○

冬のはじめ
屋上庭園のうえからみる
神戸の街の
妙によそよそしい
そのくせひとすじのたちがたいあくがれのにじんだ顔
山のほうだけは
秋ばれのようにすみきってあかるい
たかいところからみるゆえだろうか
まやまやとたちのぼるむすうのけむりのいたましさ
いちように
くすんだはがねいろの街のいろどり
ざつ然としたそのすがたは
整然としたひとすじのかなしみとなってつんざいてくる


  ○

よるのともしびのもとに
ちんもくのときをすごせば
そとのやみにうまれる
ときおりのとおい列車のひびき
水をくむぽんぷのひびき
小路(こうじ)をゆくおんなの下駄おと
そべてそとにうまれそしてしずかにきえてゆく
そのものおとは他界のもののごとくなつかしまれる


  ○

あたらしくあゆもう
きのうのうたはわすれよう
しかしながら
きのうのうたとおなじように
きょうもうたうことをおそれはすまい


  ○

はん省ということをわすれて
大人のなかまからははなれてしまった
いちねんということをうしなって
こどものむれからはなれてしまった


  ○

すべての
くるしみのこんげんは
むじょうけんに むせいげんに
ひとをゆるすという
そのいちねんがきえうせたことだ


 み名を呼ぶ 一九二五年(大正十四年)三月編

  ○

死をおもう
そのおもいもつきては
ちちよ ちちよと みなを呼ぶ


  ○

死ぬことを
生くることにくらぶる
ひそかなるたのしみになれたれど
まずしくやみていれば
ひたすらに生きたいとねがわれる


  ○

まぼろしであったゆえか
ほんとうであったゆえか
うつくしいせかいはきえた
死ぬだけのものがのこされたのか
死にまさるものがどこかにあるのか
ただひとすじのねがいは
うつくしいものをつくろうというねがいだ


  「聖 書」

この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のようにかんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりこみたい


 赤つちの土手 一九二五年(大正十四年)四月二十一日編

  ○

むかし
海をこがれた日は
海にきてしつぼうした
きょう野にきたらば
海のこころまでもかんずる


  ○

あかつちの
くずれた土手をみれば
たくさんに
木のねっこがさがってた
いきをのんでとおった


  ○

おおきな
沼をみた
そのこころは
しずかに生きてゆく
つまり死なないんだ


 春のみず 一九二五年(大正十四年)四月二十九日編

  ○

かなしみを
しきものにして
しじゅうすわってると
かなしみのないような
いいかおになってくる
わたしのかおが


  ○

ぜつぼうのうえにすわって
うそをいったり
にくらしくおもうたりしてると
うそや
にくらしさが
むくむくとうごきだして
ひかったようなかおをしてくる


  ○

えりあしのしろい しなやかなあしの
えんぜるがあって
まいあさ ひとつの花をにわにおいてゆけばいいな
つぎの あさは あたらしいのと植えかえて
ねんじゅう わかわかしい わたしであらせてくれ


 赤いしどめ 一九二五年(大正十四年)五月七日編

  「雲 雀」

畑道のふちの枯芝に腰をかけ
桃子と並んで
雲雀(ひばり)の鳴くのをきいていた


  ○

ゆうぐれの
はらっぱへ
こどもが
かしこまっている
しどめの実がなっているようだ


 こ と ば 一九二五年(大正十四年)六月七日編

  「不 死 鳥」

死ぬることをおもえば
死ぬことはひかってみえる
かるげである
ひかりのなかに命あるものがちさくうごくようにおもわれる


  「ね が い」

どこを
断ち切っても
うつくしくあればいいなあ


  「妻 に 与 う」

妻よ
わたしの命がいるなら
わたしのいのちのためにのみおまえが生くるときがあったら
妻よわたしはだまって命をすてる


  「桃 子 よ」

もも子よ
おまえがぐずってしかたないとき
わたしはおまえに げんこつをくれる
だが 桃子
お父さんの命が要るときがあったら
いつでもおまえにあげる


  「ね が い」

できるだけ ものを持たないで
こだわりなく 心をはたらかせたい



  「子 供 の 眼」

桃子の眼はすんで
まっすぐにものを視る
羨(うらやま)しくってしかたが無い


  「暗 い 心」

ものを考えると
くらいこころに
夢のようなものがとぼり
花のようなものがとぼり
かんがえのすえは輝いてしまう


  ○

妻よ
わらいこけている日でも
わたしの泪(なみだ)をかんじてくれ
いきどおっている日でも
わたしのあたたかみをかんじてくれ


 論理は熔ける 一九二五年(大正十四年)六月十二日

  ○

みにくいものは
てぢかにみえる
うつくしいものは
はるかにみえる


  ○

うつくしいものはかすかだ
うつくしい野のすえも
うつくしいかんがえのすえも
すべてはふっときえてゆく


  ○

ちんもくを
つらぬいてみよう
いいにんげんになれるかもしれぬ


 美しき世界 一九二五年(大正十四年)八月二十四日編

  ○

いつになったら
すこしも 人をにくめなくなるかしら
わたしと ひとびととのあいだが
うつくしくなりきるかしら


 ひびいてゆこう 一九二五年(大正十四年)九月三日編

  「ね が い」

人と人とのあいだを
美しくみよう
わたしと人とのあいだをうつくしくみよう
疲れてはならない


  「愛」

うつくしいこころがある
恐れなきこころがある
とかす力である
そだつるふしぎである


  「愛のことば」

愛のことばを言おう
ふかくしてみにくきは
あさくしてうつくしきにおよばない
しだいに深くみちびいていただこう
まずひとつの愛のことばを言いきってみよう


 花をかついで歌をうたおう 一九二五年(大正十四年)九月十二日編

  「雨」

雨をみてると
おどりたくなる
花をかついでうたをうたおう


  「手」

電気が消えた
お手手ないない
お手手ないないって
もも子がむちゅうで両手をふりだした
死んじまうようなきがしたんだ
手が無いとおもったんだ


  「ひ か り」

ひかりを呼ぼう
ひかりをつつむものをほころばそう
こぼれてくるひかりをうけよう



 母 の 瞳 一九二五年(大正十四年)九月十七日編

  「太 陽」

太陽をひとつふところへいれていたい
てのひらへのせてみたり
ころがしてみたり
腹がたったら投げつけたりしたい
まるくなって
あかるくなって落ちてゆくのをみていたら
太陽がひとつほしくなった


  「秋 の こ こ ろ」

水のおとが きこえる
水の音のあたりに胸をひたしてゆくと
ながされてゆくと
うつくしい世界がうっとりとあかるんでくる


  「雨」

雨のおとがきこえる
雨がふっていたのだ
あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしずかに死んでゆこう


 木 と も の の 音 一九二五年(大正十四年)九月二十一日編

  「木 と も の の 音」

秋になると
木がすきになる
ものの音がよくなってくる


  「死」

お互いに うでをくみ
肩のところをくっつけながら
くろいものといっしょにかんがえていた


  「秋」

秋になると
ふとしたことまでうれしくなる
そこいらを歩るきながら
うっかり路をまちがえてきづいた時なぞ
なんだか ころころうれしくなる


 よ い 日 一九二五年(大正十四年)九月二十六日編


  「桃 子」

つかれて帰えってきたらば
家のほうからひらひら桃子がとんできた
赤いきものを着て
両手をうんとひろげながらそっくりかえって
ぷつぷつぷつぷつ独りっことをいいながらやってきた
わたしのむねへ
もも子がころころ赤くうつるようなきがした


  「け む り」

こころがとざして耐えられぬ日
なにをみてもむねがあかるまぬ日
焚き火のけむりをみていたらば
あかるまぬままに
とざしたままに
からだがしずまってきた


 しずかな朝 一九二五年(大正十四年)十月八日編

  「母」

お母さま
わたしは 時とすると
お母さまがたいへん小さいひとのようにおもえてきて
このてのひらのうえへいただいて
あなたを拝んでいるようなきがしてくることがあります
こんなあかるい日なぞ
わたしの心は美しくなってしまって
お母さんをこの胸へかざり
いばってやりたいようなきがします


  「川」

ひろい川をみると
かなしみがひろがるのでらくになるようなきがする


  「考がひかる」

かなしくものをかんがえていると
かんがえのすえはひかって消えてしまう


  「本当のもの」

どうしてもわからなくなると
さびしくてしかたなくなると
さびしさのなかへ掌(てのひら)をいれ
本当のものにそっとさわってみたくなる


  「雨」

雨がふっている
いろいろなものをぬらしてゆくらしい
こうしてうつむいてすわっていると
雨というものがめのまえへあらわれて
おまえはそう悪るいものではないといってくれそうなきがしてくる


  「ね が い」

ものを欲しいこころからはなれよう
できるだけつかんでいる力をゆるめよう
みんな離せば死ぬるようなきがするが
むりにいこじなきもちをはなれ
いらないものからひとつずつはなしてゆこう


 日をゆびさしたい 一九二五年(大正十四年)十月十八日編

  「夕 陽」

ゆう焼をあび
手をふり
手をふり
胸にはちさい夢をとぼし
手をにぎりあわせてふりながら
このゆうやけをあびていたいよ


  「おだやかな心」

ものを欲しいとおもわなければ
こんなにもおだやかなこころになれるのか
うつろのように考えておったのに
このきもちをすこし味わってみると
ここから歩きだしてこそたしかだとおもわれる
なんとなく心のそこからはりあいのあるきもちである


 赤い寝衣 一九二五年(大正十四年)十一月三日編

  「う す ら 陽」

うすら陽がみなぎっている
こころはやさしくたかぶり
醜いことをかんがえても
そのかげは花のようにうつくしい


  「寝 顔」

家のものどもは
みんな寝いってしまった
枕をならべて安心している顔をみると
ただしい心になる
まちがいなくこの者たちをまもろうとおもう


 欠題詩群 <推定・一九二五年(大正十四年)秋編>

  「あ る 時」

べつに
することもないし
悲しいこともなかったので
ひとりでにこにこしていた


 晩 秋 一九二五年(大正十四年)十一月二十二日編

  ○

まことに
弱いということは或る意味で罪悪である
「死」を背中にしょってやってみるのだ
一かバチか捨身でゆくのだ
自分を全部投げ出してしまえば
そこではじめて強いも弱いもなくなる
その全部というのが難かしい
いこじでも自棄でもない
真正面から 毛ほどのすきもない 捨て身である


 欠題詩群 <推定・一九二五年(大正十四年)冬編>

  「月」

櫟(くぬぎ)ばやしのうえに
まるい月がひかっている
まだ日ははいりきってはいず
つめたい風に吹かれながら月をみていた
月をみながらいろいろのことが胸に浮ぶが
ことに自分がどう生きたらばよいかという事がしきりに考えられ
つまりは神のこころをはっきりと知って
ひとびとと美しく交り
しまいまで耐えてゆくことが大切だとおもった
そしてこんな正しい考えをまとめてくれる
幼げな顔の月がありがたかった


 麗 日 一九二六年(大正十五年)一月十二日編

  「昼 の 月」

冬の青い空に
半分の月がかかっている
風に吹かれて今にも落ちそうだ
しかしよく見れば
その月の何という白さ 力づよさ



 赤 い 花 一九二六年(大正十五年)二月七日編


  「風 邪」

風邪を引いて寝ていたら
妻が障子をあけて出ていった
そこから冬空がまっ青にみえた


  「太 陽」

きょうあたりの
こんな冬の太陽の気持ちがほしい
すこしも無理な力をいれずに
それでいて
人を思うとおりに動かす
人はそれで満足している


  「願」

死んでしまえば何んにもならない
たとえ生きていたにしろ
此の世につくものに本当のちからはない
何にもかもわすれてしまい
人をうらやまず人を恨まず
天を仰いで恥かしくなくしていたい


 信仰詩篇 一九二六年(大正十五年)二月二十七日編

  「ね が い」

きれいな気持ちでいよう
花のような気持ちでいよう
報いをもとめまい
いちばんうつくしくなっていよう


 「朝 飯」

一日中ひびだらけの手で働きつめる
うつくしい顔をして眠っている妻を起す気になれず
まだ快(よ)くなりきらないが
私がそっと起きて朝飯をたいた


  「涙」

病気がいい方へ向ったし
それに今日は暖いそれはいい日だった
家へ帰って来ても
何んだかうれしくてならず
ありがたいありがたいって
妻に話しながら涙がぼろぼろこぼれた


  「晩 飯」

からだも悪いし
どうやっても正しい人間になれない
御飯をたべながら
このことをおもってうつむいてしまった


  「病 後」

梅が咲いたそうですね
朝から雨がふっていますが
今日は熱もとれたようで
身体の気持ちがいかにもよい
こうしてたきたての御飯に
あつい味噌汁をよそって喰べると
ほんに久しぶりに味がわかってうれしい


  「太 陽」

あなたは統べてのものへいりこむ
炭にはいっていて赤くあつくなる
草にはいっていて白い花になる
恋人にはいっていて瞳のひかりとなる
あなたが神の重い使であることは疑えない
あなたは人間の血のようなものである
地の中の水に似ている
不思議といえば不思議である
有難いといえばじつに有難い
あなたより力づよいものがあろうか
あなたが亡ぶる日があろうか
そして別のあたらしい太陽がかがやく日があろうか
あると基督(キリスト)はおしえられた
ゆえにその日はあると信ぜられる
しかしその日まであなたは此の世の光りである
みゆる光りはみえぬ光りへ息吹を通わせている
あなたの高い気持ちにうたれた日は福(しあわせ)な日である
 
 

テーマ: - ジャンル:小説・文学

  1. 2011/03/31(木) 23:55:00|
  2. ことば
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
<<八木重吉 『花と空と祈り』より | ホーム | 八木重吉 『貧しき信徒』より>>

コメント

ようこそ!

こんばんは、はじめまして。
八木重吉の詩は、赤子のように無垢で単純、しかし、いとけない文章が、胸を深く刺し貫きます。
重吉氏は、ちょうどこの頃、肺結核の症状が出て、苦しんでいたようです。
信仰心の篤い人で、夫人の回想によると、魚や肉類を
「可哀そうで食べられない」
と食べなくなっていたともいわれています。
キリストの再来を信じ、詩の中で何度も耶蘇(やそ)の名を呼び祈っていました。

私は無宗教で、健康で、死とは無縁の生活をしていますが、なぜか(だからかな?)この人の詩に惹かれました。 で、わーっと手当たり次第メモしたのがこの記事です。
こんな記事でもお役に立てたのなら、幸いです。 探しものが見つかって、良かったですね。 コメント、どうもありがとうございました!
 
  1. 2012/07/02(月) 20:26:02 |
  2. URL |
  3. 藍田海 #-
  4. [ 編集 ]

こんにちは。はじめまして。

何十年も前、中学生か高校生の頃よんで、
誰のどの詩だかわすれてしまっていて、
実家にある本棚をさがすよゆうもなく、
でも、だれの言葉の断片だったか、ずっと気になっていた詩に、
又、出会えました。

本当にありがとうございました。

「どうやっても正しい人間になれない
ごはんをたべながら うつむいてしまった」

このフレーズだけ覚えてて、ずっとさがしてました。
八木重吉さんだったんですね。

感謝です。

  1. 2012/07/02(月) 16:26:23 |
  2. URL |
  3. フルハシユミコ #-
  4. [ 編集 ]

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